**********
「きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。そう心のどこかで思いつづけ、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする。行きたいところ、行くべきところぜんぶにじぶんが行っていないのは、あるいは行くのをあきらめたのは、すべて、じぶんの足にぴったりな靴をもたなかったせいなのだ、と。」
出だしから美しい言葉だな、と思うと同時に私にとっては穏やかな人というイメージを覆すような、強い意志が感じられました。実際、須賀敦子さんはかなり強い人だったのだろう、いろいろな意味で。須賀敦子さんはじぶんにぴったりの靴でどこまで行きたかったのだろう、とふと考えてしまいます。
全集第3巻の本書には、「ユルスナールの靴」、「時のかけらたち」、「地図のない道」そして、1993~1996のエッセイが収められています。
再読だったのだけれど、前回にも増して私には難しく感じました。それは「あぁ、難しすぎて読めない」と放棄するような感じではなく、「私にはまだ理解できないところがたくさんある。何回読んだらもっと深く理解できるんだろう」という圧倒的な敗北感と、あきらめであって、決して読むことを投げ出したりしたくなるものではなかったのですが。
ジッドの「狭き門」を戦時中にようちゃんという友達から薦められて読んだという経験が、後々ミラノに住むことになった須賀敦子さんがミラノの大聖堂に抱く気持ちから再び思い起こされ、「精神性」という言葉で説明されるところがあります。「精神が、知性による判断の錬磨でありその持続であること(中略)そして「たましい」に至るためには「精神」を排除してはなにもならない」などという言葉には、一瞬目がくらみそうになりました。そんなことを考えたこともない自分が恥ずかしくもあり、どのように生きていけばそういうことを考えるに至るのか興味深くもあり・・・。こういうところが、本書が難しいと思う所以なのです。
詩の話になるともうお手上げでした。母国語ではない言葉で書かれた詩をここまで深く理解している須賀敦子さんに感服としか言いようがなかったです。
夫を亡くしたあと、友人に誘われていったヴェネツィアのリドで過ごした時のこと綴った文章では、新婚旅行の回想もあって構成が素晴らしく、夫の死に向き合わねばならない悲しさを倍増させる文章でした。私の中で華やかな印象だったヴェネツィアに人間味あふれる陰影ができた気がします。
また、著者が文学作品や詩集に明るいことは当然わかっていたけれど、専門書のようなものもイタリア語で読んでいたことが見受けられ、すごいとしか言いようがなかったです。さらに、建築や絵画などにも造詣が深い。こういったたくさんの文化芸術に触れてから自分の中に落とし込んで、それを自分の言葉にしたからこその須賀敦子作品なのだろうとあらためて感じました。ちょっと難解になってきたな、とこちらがぼぅっとしてきても、彼女の興味がどこに行きつくのか、目が離せない、そんな作品でした。
もう遠い昔、大学生のころに母と参加したイタリアツアーで、何もわからず「海外旅行楽しい」というだけの思いで帰ってきて、好きだったけれど優先順位的にももう行くことはないだろうと思っていたイタリアにまた行きたくなりました。しかも、須賀敦子のフィレンツェとヴェネツィアだけに無性に行きたい。
**********
やはり、須賀敦子さんの文章と知識の豊富さに圧倒されました。再読ということもあるのか、今回は須賀敦子さんが何かに引っかかって、それにぐいぐい興味を示していく点が面白く感じられました。突き詰めて調べて、考え上げていく過程に研究者気質を感じました。また時をおいて再読したいです!
コメント