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ずっと読まないといけない本だとは思っていました。でもなかなか覚悟がつかなくて。
”アウシュビッツ”という言葉、それが物語る残忍な過去、そして「アンネの日記」、「ライフ・イズ・ビューティフル」や「シンドラーのリスト」などの作品で、この悲惨な歴史上の事実を少しは知っているつもりでしたが、目を背けていたところも多分にあったと思うと、遅ればせながらも、今読まないと、と思って購入しました。
やっとやっと読めました。
序章で「いい人は帰ってこなかった」とありました。ここまでのたった数ページ読んだだけで、恥ずかしながらSS(ナチス親衛隊員)やカポーもきちんと理解できていなかったことに気づきました。
話は逸れてしまいますが、須賀敦子全集のどこにだったか、ユダヤ人の知人について書かれたところがありました。その彼が強制収容所から生還してきたユダヤ人だと知り、須賀敦子は実際のところどうだったかは確か不明なままだったと記憶していますが、彼に対して暗い想像をしてしまう。そういうことだったのではないかと。この部分が、どういうことなのかわからずにその本を読み終えた私は、この数ページで理解できたような気がしました。
フランクルが言う「おびただしい小さな苦しみ」の残酷さに初っ端からくじけそうになり、ナチスはもとより、SSやカポーのことを考えると、人間はどこまで堕ちていけるのだろうと暗澹たる気持ちになり、このまま読み進められるだろうかと不安になりました。
しかし、読み進めるうちにどんどん惹き込まれていくというどなたかのレビューを信じて、読み進めました。
やはり有名なところは「精神の自由」のところでしょうか。色々なところに引用されているからか、なんとなく知っているというような言葉もあり、ここか、そういうことか、と、ここまでたどり着いたというちょっとした感動がありました。この極限を経験した人が語る言葉は、重く、深く、しかし、本当にこんな精神の高みに至れるのか、という疑問の思いもまたあったことも確かです。しかし、人間として脆弱でない者が、この凄惨な状況を生き延びることができたということからも、こういうところでこそ、人間性が試されるというのはひとつの真実だろうとも思いました。
「人間」とは、「生きる」意味とは。
やはり人間は未知の未来に希望をもってこそ生きられるものなのか。
フランクルが紡ぐ、精神的な強さに、様々な考えが頭をよぎりつつ、心はどこか深いところに落ち着いていくような感じがしました。
解放された後、この世界にまだ戻り切れていない状況が、よりそれまでの生活の凄惨さを表していると思いました。愛する者に再会する日を夢見て、その未来だけを精神的なよりどころにしてなんとか命をつないできた人たちが、その愛する人がすでにこの世にいないとわかった瞬間の、絶望なんて言葉では到底表すことのできない心境を考えると、怒り、悲しみなどなんとも表現しがたい思いが体中をめぐりました。フランクルもまた、こうした人たちのひとりだったのですね。
読み終えてみて、人間の凄さを感じました。人間として堕ちるところまで堕ちる人もいるし、実際そっちの方が楽だろうに、真逆に精神レベルを高見まで持ってくることができ、「人間」として生きる人もいる。あぁ、そうだ、人間って捨てたもんじゃない。そう思えました。
私の読書力、人間力では、一読ではまだ自分の言葉には置き換えられない、自分の考えに変換できない、重みのある本でした。わかるようでわからない。捉えられたようで、捉えきれていない。また折に触れて読んでいこうと思います。
読んでよかった、と心から思います。
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これは「読むべき」本ですね。胸が苦しくなる記述も避けてはいけない事実だし、フランクルが至った精神の高見は一読では理解できないところがあっても繰り返し読むことで理解できてくるんじゃないかと思います。ちょうど先日読み終えた「千年の読書」でも、夏になると本書を必ず読むという知人の話題があげられていました。すごく良い習慣だと思いました。それほどの価値がある本です、間違いなく。
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